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島町の獅子舞について

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獅子舞保存会

「まめころがし」から「棒振り型」へ

町内では秋祭りに厄除けとして獅子舞が行われていますが、当町内の場合、昔と今では獅子舞のかたちが異なっています。

昭和十六年、七年ごろまでは「まめころがし」と言って、赤いメスの獅子を舞っていましたが、青年団が「棒振り」が伴う、迫力のあるオスの獅子舞をやりたいと考えるようになり、「棒振り型」の獅子舞を舞っている片山津町(現加賀市)の青年団に教わることとなりました。今と違い、街灯もなく暗い道を、自転車に乗って片山津の愛染寺(かつての名は薬師寺)まで通ったそうです。

「棒振り型」は、裁着け袴にたすき掛け、わらじをはいた棒振りが獅子と一緒に舞、獅子退治の様子を表現したものです。

尖った棒を持ち、鬼の面をかぶる「こんこらこん」と、しゃんが(赤熊の毛)をかぶって房の付いた棒を操る「しゃんしゃん」の二人の棒振りで舞うことにしました。しかし、獅子頭、蚊帳といった道具をそろえる資金が足りず、団員が天池の泥上げなど、町内の人夫で工面しました。

「棒振り型」の獅子舞になると、その奇抜な衣装と迫力は、町民の大変な人気を呼び、大人も子どもも太鼓台を引きながら獅子のあとに付いて歩きました。

初めて棒振り型の獅子舞を舞った時には、片山津の青年団も見に来てくれました。最終日には片山津の青年団が寝獅子を披露し、町内青年団はもちろん、町民も初めて見る寝獅子に圧倒され、感激したということです。ちなみに、この寝獅子とは、山道を歩いていた農民が寝ている獅子につまずき、獅子を怒らせるという筋立てです。農民がからかいながら獅子を退治する様子をこっけいに舞うものです。

翌年からは、青年団員が二日目の最後に寝獅子を披露するようになりました。見よう見まねで覚えた寝獅子ですが、町民にとても喜ばれ、寝獅子を舞う時間になると、多くの町民が集まったそうです。

昭和三十年ごろ、今度は刀を持って舞う「ちーらか」を覚えるため、加賀市高塚町へ教えを請いに赴き、三人の棒振りが交代で舞うようになりました。その後、団員の減少などにより青年団活動も衰退し、獅子舞もなくなってしまいました。

青年団について

ここで少し、獅子舞と島町の青年団について説明しておきます。数え年十五歳で入団すると、最初は「前髪」いい、雑務や使い走りでした。上下関係が非常に厳しく、年少者は年長者に対し、絶対服従だったということです。一年経つと中前髪になり、十九歳で頭前髪になりました。

この頭前髪になると、祭りの時には着流し姿で、盆を持って各家から祝儀を集め、半紙に筆で名前を書き、太鼓台の廻りに張ります。獅子舞の休憩所では、目録といってその名前を読み上げるのですが、頭前髪が自ら考えた文句をおもしろおかしく読み上げるので、町民には大うけだったようです。この頭前髪が青年団として最も華やかな時期を送ります。

頭前髪が終わると、祭りの獅子舞には参加せず、慰労会だけに顔を出し、酒を酌み交わしました。酔がまわると勢いで獅子を持って来させ、後輩の前で獅子を舞ったそうです。二十五歳で青年団は卒業となります。

獅子舞の復活

しばく途絶えいました獅子舞ですが、平成二年に初老迎えた二十五年会(青年団員が最も多く活動が盛んだったころのメンバー)が、青年団時代、一緒に獅子舞をしていた有志に協力を求め、復活させることになりました。当初は経験者のみの参加で、人数も限られており、獅子を舞うのは初老当事者と町内役員の家庭のみでしたが、町民には懐かしさもあり、大変喜ばれ、獅子舞を初めて見た子ども達の目は輝いていました。しかし、これは一時的な復活でしかありませんでした。

平成九年に初老を迎えた三十ニ年会が「もう一度獅子舞で祭りを盛り上げたい」との思いから再復活することになりました。その後は、毎年初老を迎える方々により継承され、平成十三年まで続きました。平成十四年は都合により獅子舞が行われず、翌平成十五年に三十八年会の方々で再開されました。これにより、獅子舞存続を熱望する一部有志が集まり、保存会設立に向けた準備活動が始まりました。

平成十八年に町内初総会で正式に町内組織として認められ、同年七月に規約を作成。毎年祭りには子ども神輿に加え、町内で獅子舞を披露しています。また、夏休みには公民館文化広報部の皆さんと共に、子どもを対象とした「竹笛づくり」を開催しています。

平成二十一年度の島町獅子舞保存会の会員は六十五名を数え、伝統ある獅子舞を後世に伝えたいと一年を通して練習に励んでいます。

島町史より

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